空気の存在

 一緒に食事をするのは初めてじゃない。でも、それまで全く気付かなかった。
 確かにファーストフード以外の、いわゆる「箸」を使うような食事を一緒にしたのは初めてだ。しかし、それ以外にもその事に気付いてもよさそうな場面は何回もあったのでは、と晃は思う。
 でも実際は今初めて気付いたのだ。
「お前、ぎっちょだったんだ・・・」
 その晃の一言に、征城は心底嫌そうな顔を返してきた。



「ぎっちょって云うなっ」
「何で?今まで全然気付かなかった」
 晃は物珍しそうに征城の左手を見る。
 自分と向き合って座る征城の手に握られた箸が、何故か自分が握っている箸と同じ側にあって・・・・・・それで初めて気が付いたのだ―――征城が左利きだと云う事に。
 器用に左手で箸を操るその姿に、単純にすごいと云うか、不思議な感覚を持つ。
 いわゆる鏡を見ているような、そんな感じだ。
 これが別に気にも止めないような赤の他人であれば、全く気にならなかったようなことが、相手が変わるとこうも自分の感覚を刺激するのかと、それもまた不可思議な感覚だったりはするのだが。
 実際、晃の周りには左利きの人間は今まで存在しなかったし―――居たとしても、それこそ興味のない人間が左手を使おうが右手を使おうが晃にとっては大した問題ではなかった。
 そんなこんなで思い返してみれば、小さい頃に一時期左手で物を書く練習をしたり、箸を左手で持ってみたりと云うことが流行った時期があったと、そんな記憶がふと晃の脳裏に浮かんでくる―――左手を自在に使えることが何故か「格好いい」とか、そう云う時期があったのだ。
 何を馬鹿なことを、なんて思いつつ、気が付いたら自分も左手に鉛筆を握っていて、一人ばつの悪い思いをした。
 まぁ、今になってみれば、それもいい思い出だったりはするのだが、と晃は一人頷きを返す。
「左利きが嫌なんじゃなくて「ぎっちょ」って云われるのがむかつくんだよ」
 そんな過去の思い出に浸って居た晃に、征城はむくれた顔を隠そうともしない。
「そうなのか?同じ意味じゃないか」
「俺にとっては違うのっ」
 実際、征城としては「左利き」と云われるのはまだよかったのだが、「ぎっちょ」と云われるのには抵抗があった。
 一卵性にも拘わらず、双子の弟は右利きだった。
 親からも無理やり矯正させられて、それこそ右左関係なく扱うことができるようにはなった―――が、そこに至るまでの特訓と云うものは幼い征城にとっては何よりも苦痛だったのだ。
 そして、それでもたまに出てしまう左手に、心ない同級生から「ぎっちょ」とからかわれ続けたのだ。
 何で僕だけ―――
 幼心に何度そう思ったか知れない。
 だが、自分が右手で箸を持つようになって初めて「ぎっちょ」と云う言葉に一種の憧れや、無い物ねだりの幼い嫉妬心が含まれていたのではないか、と思い至るようにはなったのだ。
 が、やはり小さい頃に植付けられた嫌な記憶と云うものは消える訳でもなく―――我ながら情けないとは思うのだが、未だ「ぎっちょ」と云う言葉にいい印象を持てないでいる、それは確かだった。
「普段は普通に右手使ってるけど、箸だけ左なのか?」
「別に普段は箸も右手」
 気が付けば先程まで征城の左手に握られていた箸は、右手へとその位置を変えていた。
 先程までと変わらぬ流暢なその動きに、本当に普段は右手での生活に終始しているのだと晃は納得した。
「ただ・・・・・・」
「ただ?」
 ただ、考え事をしていたり、気を抜いたりするとついつい楽な方に行ってしまうのだと、そう続ける。
「へぇ〜」
 と、感心したように頷いた後、晃は嬉しそうに続ける。
「じゃぁ、俺といる時は気楽にできてんだ」
「は?」
「だってそうだろ?ついつい左手が出ちゃうくらい気が抜けてるって事は、俺と一緒にいるのが気楽だってことだろ?」
「あぁー、っと・・・・・・」
 そうなのかな?と、思う。
 考えてもみなかったが、晃と居ると気を張らないのは事実で―――それがいつからなのか、どうしてなのか、そんなことは分からないのだが。
 ただ、小さい頃に矯正されて、それこそ今では家族の前ですら左手が出ることはほとんどない―――それこそ一人っきりの時に気が付いたら左手を使っていたことがあるくらいだったのだ。
「なんでだろう・・・」
「何が?」
「みやと一緒の時だってこんなことないのに」
 なんか変だ。
 と、そう小さく続ける。
「変じゃないだろ?まぁ、お前にとって俺は空気みたいな存在になったって、そう云うことだ」
「空気?」
「そう。居ても気にならない、居るのが当たり前、居ないと死んでしまう―――」
「はぁ?別に宮瀬居なくても死なねーよっ」
「死なないけど、居るのは当たり前には賛同なんだ」
 自分の言葉を遮って叫ぶ征城に対して、晃はニヤリと笑みを返す。
「―――っ」
「はは、真っ赤になっちゃって可愛いの」
「別に当たり前なんて思ってないし、赤くなんてなってもないからなっ」
 真っ赤な顔をして叫ぶ征城に、晃は分かった分かったと云わんばかりに頷きを返す。
 そんな子供みたいに扱う晃の態度がむかついていた時期もあった。
 でも、今はそんなに嫌じゃない。
 それどころか―――
 そこまで考えて、その先にある答えを振払うかのように頭を振る。
「どうした?」
 そんな風に優しく問いかけられるのも微妙な感じで。
「変なのっ・・・」
 そう呟くと、真っすぐ見つめてくる晃の瞳から逃げるように視線をそらした。



 前は怖いと思っていたその視線が、最近はなんとも云えず心地が良い―――出会ってからまだ数カ月だと云うのに、この心地のよさはなんなんだろうか。
 まだきっちりとした答えはないけれど、自分の中に占める割合がどんどん増えてくる。
 それが怖くもあり嬉しくもあって―――
「あ―――っ」
「ボーッとしてるから、だ」
 征城の皿から取った空揚げをほお張りながら一言。
「最後の楽しみだったのにっ」
 半分立ち上がりそうな勢いでくってかかる征城を横目に、晃は紙ナフキンで口を拭うと「ごちそうさま」とばかりに両手をあわせる。
「じゃ、行くか」
 と一言。
 征城の了承を得る事なく、机上の伝票を手に取ると、そのままレジに向かって行く。
「ちょっ、宮瀬っ」
 一口、水を口に含んで急いで追いかける。
 会計を済ませた晃の左横に並ぶと、それも当たり前のように晃が右側に視線を落とす。
「まぁ、空気みたいなもんだな」
 この位置が当たり前なんだよなぁ〜と続ける晃の言葉に、なんとなくではあるが共感を覚える。
 居ても気にならない、居るのが当たり前、居ないと死んでしまう―――少なくとも、居るのが当たり前、にはなってしまった晃を見上げる。
 やっぱり「嬉しい」の方が大きいんだろうな―――こう云うのも悪くないのかな、と。そんなことを考えながら、晃に隠れてこっそりと征城は笑みを浮かべたのだった。


BACK