課 外 授 業


−2−

「本当に助かったよ」
 先程とは打って変わってきれいに片付けられた生物準備室で、綾瀬はコーヒーカップを差し出しながら云った。
 座る場所も、カップを置く場所まで作られたその空間で、綾瀬とは云えども、いわゆる先生と呼ばれる人種と向き合っているのはちょっと苦痛だった。
 和気あいあいと片付けをしていた時とは違う、なんとも云えないしんとした空気が、なんだか悪さをして放課後呼び出しをくらって説教をされているみたいな、そんな嫌な雰囲気に似てるのだ。
「なんだ、いきなり黙りこくって。今頃緊張でもし始めたか?」
 そんな俺の心情を見抜いているのか、綾瀬はいたずらっこのような、ちょっと意地悪な笑みを向けてくる。
「なんか放課後に呼出しくらったみたいで居心地悪いや・・・」
「あぁ、確かにな。俺も学生の頃はここも苦手だったなぁ」
「え?」
「俺がここに通っていた頃の生物の先生なんて、そりゃぁ怖くてさ。部活の顧問だって云うのもあってよく呼出されてたけど、ドアを開けるのすら苦痛だったぞ」
 ちょっと遠くを見ながら、過去を懐かしむかのように綾瀬は云う。が、俺はそんな綾瀬の仕草よりも、語られた内容に驚かされた。
「って、綾瀬ここの卒業生なの?」
「知らなかったのか?」
「初めて聞いた・・・・・・そっか、やっぱり卒業生って多いんだ」
 そう云われてみれば数学の宮瀬も国語の日比野も卒業生って聞いた覚えがあった。その二人に比べれば、かなり地味な部類に属されるであろう綾瀬の経歴など、入ったばかりの俺が知らないのは当たり前なのかもしれない。
「まぁ、宮瀬や日比野は目立つからなぁ・・・・・・どうせ彼らのことは聞いたことあったんだろ?」
「実は同級生とか?」
「いや、俺の方が学年で2つ上かな?昔から彼らは目立ってたからなぁ」
 また過去を懐かしむかのような綾瀬の仕草に、先程見せられた子供っぽさとのギャップを感じて、どっちの綾瀬が本当なのか分からなくなる。
 綾瀬は机に半分身体を預けるような格好で、手にしたコーヒーカップを傾けた。その液体飲み込む瞬間の、その喉の動きから俺はどうしてか目を離すことができなかった。
「飯島はコーヒー苦手だったか?」
 渡されたカップの中身にまったく手を付けようとはしない俺に気が付いたのか、綾瀬はそう優しく問いかけてくる。コーヒーなんてほとんど飲んだことがない俺にとっては、好きも嫌いもないと云うのが本音で・・・・・・
 何か他のものでも、と問いかけてくる綾瀬に対して、俺は笑顔でカップに口を付けたのだ。



 そして今、何故か綾瀬に預けるように、俺はまったく力の入らない身体をなんとか云うことをきかせようと頑張っていた。
 椅子から崩れ落ちそうになった所を間一髪助けてくれた綾瀬に対しての、平気だと分からせようとか、そんなんじゃなくて、ただ急に力が抜けて行った自分の身体が怖かった。
「大丈夫か?」
 優しく問いかけてくる綾瀬の声も遠くに聞こえるような、意識はあるのに霞がかかったような、そんな不思議な感じだった。
「ずっとお前を見ていたよ」
 そう耳元で声が聞こえる。
 その言葉が何を意味しているのかも、この霞がかかったような頭ではなかなか判断がつかない。
 でも、その耳元でささやかれる声と共に、崩れ落ちた身体を支えていた腕が、何か意味を持ったような動きをし始めたことだけは理解できた。
「や、だ・・・・・・」
 その手をどけようと試みるが、自分の身体が思ったように動かない。動かないからこそ、今の状態に陥っていると云うことすらもう考える余裕もなかった。ただ、それが綾瀬の手であり声である、それだけはしっかりと認識できていた。
「あ、やせ・・・・・・」
 その俺の一言に、一瞬手の動きが止まる。だが、それは本当に一瞬のことで・・・・・・俺は自分の体を弄る手に嫌悪を覚えながらも、そのまま意識を飛ばしていた。



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