課 外 授 業


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 耳元で「ジョウ」と囁かれた瞬間、俺の脳裏をよぎったのは、過去の恐怖の体験だった。
 瞬間、綾瀬のことを突き飛ばしてしまったとしても、それは絶対に俺のせいじゃない―――そう言い切れるかどうかは、最早神のみぞ知る―――いや、この目の前の男のみが知る、まさにそんな感じだと思うのだ。
「な、なんでジョウなんだよっ」
 そう、俺の名前は飯島譲―――「ゆずる」と読むその名前を初めて「ジョウ」と呼んだのは、「ゆずる」と上手く発音できなかった、そう、ドイツ人だった母方のばあちゃんだった。
 そしてもう一人、俺のことを「ジョウ」と呼んでた奴がいた。
 じっと綾瀬の顔を見つめる。
「まさか……」
 そう青い顔で問いかける俺の言葉に、今までのしおらしさは何処に行ったのか、綾瀬が眼鏡を取り、逆の手で目のギリギリまで降ろされていた前髪を書き上げながらにやりと笑った。
「俺は昔から、お前は人を信じすぎるって云ってただろ?」
「誠一郎っ?っだっ」
 そう名前を叫んだ俺のことを、綾瀬はいきなりグーで殴ってくる。
「なんでガキが俺を呼び捨てにするんだっ」
「ってか、普通いきなり殴るったりしねっ、だぁっ」
 そう叫んだ俺のことを、さらにグーで今度は2発殴ってきた。
 そうされて思い出した。こいつが俺の考えている奴だとしたら、反抗すればするだけボコられるのだと云うことを。
 俺は更に叫びだしそうになった口を押さえて、一歩後ずさった。
 そんな怯えた俺の姿に満足したように、綾瀬は頷いた。
「そう、ガキはおとなしくしてればいいんだよ」
 そう不適な笑みでいい切った男は、先程までの地味な感じの「綾瀬」とは同一人物には見えなかった―――そう、それは俺がよく知っている「誠一郎」だった。



「本当にお前は物覚えが悪いな」
 俺を自分の膝の上に座らせ、背後から抱き締めるようにしながら誠一郎は云う。
 俺はと云えば、もう逆らうこともできずにおとなしく身を預けているだけだった。
 俺と誠一郎が出会ったのは2年ほど前―――両親の離婚問題でばあちゃんちに預けられていた時だ。
 そのころの俺は、そう、両親の不仲さにかなり傷ついていて、それこそ夜中に抜け出しては年をごまかして遊び歩いていた。どちらかと云えば母親似の俺は、きゃしゃではあったが、年を3、4歳ごまかしてもばれないくらいの上背があり、18歳だと名乗る俺に疑いの目を向けていた者はいなかった。
 今になってみれば、二人が色々あって別れることを決意したことも、それまでに俺がいるために色々我慢していたことも、ちょっとはわかってきたつもりだ。
 ただ、あの頃の俺はまだ本当に幼くて、自分のことに一杯一杯だったのだ。
 そんな俺がある時出会ったのがこいつだった。
 ちょっとカモにしてやろうと引掛けた奴に、逆に襲われそうになって逃げている時にだった。いきなり腕を引張られて路地裏に連込まれ、反対側の路地に入って行く追跡者の背中を見た途端、あぁ、この人は助けてくれたんだと、そう安心しきってしまった。
 だから俺は素直に礼を述べたのだ、「ありがとう」と。
 だけど、ふかぶかと下げた頭をゆっくりと戻し、相手の目を見た瞬間、俺はもっとやばい奴に掴まった、それを察してしまったのだ。
 薄暗い路地でも分かるその強烈な印象を与えた男―――それが今俺を抱き締めている綾瀬誠一郎と云う男だった。



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