先生のお気に入り





□■ 初デート編 ■□
−8−



「ぎゃっ」
「どわっ」
「げっ」
 誰が何を叫んだのかは分からなかったが、征城の思いとは裏腹に、一番被害を受けたのはスプレーを撒いた本人である征城自身だった。
 一瞬にしてなんとも形容し難い異臭がツーンと鼻を付き、意図せずして涙がとめどなく流れてくる。そして鼻の奥を襲うむず痒さとそこから来るくしゃみの連発は止まる事がなかった。
「な、これ・・・は・・・くしゅっ」
 それこそ一気に方向感覚どころか平衡感覚まで滅茶苦茶になってしまったような、それくらいのパニック状態になる。
「何だよ・・・くしっ・・・ひゃっ」
 瞬間ふっと身体が浮いた。
 誰かの肩に抱え上げられ、すごい勢いで移動しているのは分かった。しかし、その手が誰の物で、そして何処へ向かっているのかは、すでにパニックに陥っている征城には判別が付かなかった。
「ちょっ・・・くしゅっ・・・ひゃっ・・・何?・・・くしゅっ」
「いいから黙ってろ」
 その肩の上で暴れる征城を物ともせずに走りながら掛けられた言葉に、征城は自分を担いでいる相手が晃であることを悟る。
「でも・・・はくしゅっ・・・」
「鼻水俺の服に付けるなよっ」
「んなこと云ったっ・・・ぎゃっ!!」
 いきなり下ろされたかと思ったら、今度は頭を捕まれそこに冷たい水が降り注いできた。
「な・・・ちょっ!!ぐはっ」
 叫ぼうとした瞬間今度は顔に水をばしゃばしゃと掛けられる。口を開けば水が入ってきて思うように叫べないどころか、鼻にまで水が入ってきて苦しいことこの上ない。そしてそこから逃れようとばたばたと暴れても、征城を拘束する腕の力は緩むことはなかった。
 そうこうするうちにきゅっと蛇口を締める音がして頭上から降り注いで来ていた水が止まりる。と同時に、征城を拘束していた腕が離れた。
 やっと自由になったと、がっと身体を起こしなんとか目を開いた征城の視線の先には、自分ほどのダメージは受けてなさそうなものの、目を洗いうがいを繰り返す晃の姿があった。
 一瞬文句を云おうと口を開きかけたが、ふと、征城は先程までの目や鼻の痛みが薄らいでいることに気付く。
 そして目が見えるようになったことによって、征城を襲っていたパニック状態からも抜け出すことができていた。
 もしかして・・・
 助けてくれたんだ・・・
 先程までの混乱と苦しさが嘘のようによくなっている。まだ目に少し痛みがあるものの、先程までと比べると雲泥の差である。
 ・・・でも、もうちょっとやり方ってもんがあるよなぁ〜
 ずぶ濡れになって額に張り付く前髪を一房指で摘みながら征城はむっと頬を膨らませる。と、晃が自分のことをじーっと見ているのに気が付いた。
 その真剣な眼差しにビクッとする。
 怒ってるよ・・・
 怒ってるよ・・・絶対。
 そう思いながらビクビクしている征城の目元に手を伸ばすと、晃は表情を変えないまま征城の顔をぐいっと持ち上げた。
「何・・・」
「目、充血してるな。もう一度洗っとけよ」
 無愛想にだが自分を心配して云われた晃の言葉に、征城は再度目を洗おうと洗面台に顔を近付ける。
「目は擦るなよ」
 続けてぼそっと呟くように云われたその言葉に従い、じゃばじゃばと顔を洗うように目を薄く開きながら水を掛けてみる。なんとなく沁みる感じもするが、先程までのなんとも云い難い不快感がどんどん薄れて行く事に、征城はほっと安堵の息を吐いた。
 隣からきゅっと蛇口を捻って水を止める音が響く。
 その音に恐る恐る顔を上げると、やはりと云うかなんと云うか、先程よりも更に不機嫌を通り越して怒りを隠さない表情の晃の顔があった。
「怒ってる・・・よ・・・ね・・・へへっ」
 そんな晃になんとか笑顔を向けようとするが、征城の意思に反してどうしても口の端が引き攣ることを押さえることができなかった。
 怖い・・・
 そう思った瞬間、ぼかっと頭に痛みが走った。
 晃に殴られたのだと理解したのは、目の前に握られた晃の拳があったからで・・・
「何すんだよっ!!」
「それはこっちの台詞だっ!!お前何考えてあんな所であんなもんぶち撒いてるんだよっ!!」
 怖さも忘れて瞬間叫んだ征城の言葉に被さるように、更に大きな晃の怒鳴り声が響く。
「近くに他の人が居なかったからよかったものの・・・分かってるのか?あんなもん大勢の人が居るところでばら撒いたら異臭騒ぎですぐ捕まるぞっ!!」
「・・・嘘」
「なんで俺が嘘云わなくちゃなんねーんだよっ」
「・・・」
 思ってもいなかった現実を突きつけられて征城の顔が一瞬にして青冷める。
「俺、捕まっちゃうの?」
 そんな大事になるとは思っていなかったのだ。
 自分を無視したように話を進める晃達の態度に、一瞬切れた。
 気が付いたらすごい異臭が鼻をつき、涙が止まらなくなっていた―――そんな事態を自分が引き起こしたと云うことすら、征城は瞬間理解できていなかったのである。
「いや、別に即捕まるわけじゃ・・・」
「どうしよう・・・」
 すでに晃の言葉など耳に入っていないが如く一人おどおど「どうしよう」と呟き続ける征城に、さすがに脅かしすぎたと思ったのか、晃はため息を一つ付いた後、先程までとはうって変わった優しい仕種で征城の肩へと手をかけた。
 それは本当に純粋に征城への庇護心からで・・・
 しかし、それにすら征城は怯えたようにびくっと反応を返す。
 もう自分は犯罪者になってしまったかのように怯えを隠さない征城に、晃の中に先程まで鎮座していた庇護心を喰い尽くすように、新たに独占欲にも似た負の気持ちが沸き起こってくる。
「どうしよう・・・」
「大丈夫だから」
 言葉とは裏腹に、怯えた様子の征城がが可愛くてしょうがない―――しかもそんな風にさせたのは自分なんだと、そう思うだけでぞくぞくとしたものが背筋を這い上がり、晃の加虐心を余計に煽る。
 もっと泣かせてみたい・・・
 もっと怯えさせてみたい・・・
 そう云った気持ちが自分の中でどんどんと大きくなるのを、晃は止めることができなかった。

 だが、晃はその考えを退けるように軽く頭を振る。
 今はだめだ―――晃の中の何かがそうストップを掛ける。
 今はまだ時期じゃない―――何かがそう晃に告げる。

 自分の中にそんな嗜好があったことに驚きつつも、もしかしたらこいつだけが、征城だけが何か違うのではないかと、そう晃は結論付ける。
 一目惚れなんてものの存在を信じちゃいなかった。
 だが、今思えば、あの出会いこそを一目惚れと云わずしてなんと云うのであろうか?

 そこまで考えた後、征城の肩に置いた手をそっと滑らして晃は軽く征城を抱きしめた。
「大丈夫だから」
 そして耳元で優しく囁く。
 すると潤んだ目をした征城の顔が窺うように晃へと向けられる。
「・・・ま、じで?」
「あぁ、俺が云うんだから安心しろ」
 もっと泣かせてみたい・・・
 もっと苛めてみたい―――そんな気持ちを押し殺しながら晃は優しく微笑む。
 そんな晃の微笑みに、征城はちょっと安心したように表情を緩めると、そのまま身体を晃に預けるように力を抜いた。




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